ようやくここまで来た感がする。
つまり、命に対する尊厳というか、命をありがたく頂くという当然の理屈を表に出すことに気が付いたということだ。

従来の廃棄物利用というスタンスでは、誰が気持ちよく受け入れることができようか。

古来、日本でもマタギをはじめとする狩猟文化は根付いていた。
生きるための手段としての狩猟であった。
自然界の脅威(驚異)に対する畏敬の念が、八百万の神への信仰をもたらし、人々は心から頭を垂れてきた。
猟で山に入る前には、山の神に祈りを捧げ、獲れた獲物にはその生涯を讃え感謝の念を示してきた。
そうやって得たご馳走は、地域の人々と分け合うことで運命共同体としての結びつきを確認してきた。
少なくとも、小生の生まれ育った土地にはそういった心持ちが残っていた。

ところがどうだろう、ある時からジビエと称する廃棄物利用策が、叫ばれ始めた。
有害獣が増え、農産物被害が深刻だとして、狩猟による淘汰圧力の行使を余儀なくされた行政が主体となり、殺しっ放しでは恰好が付かないという、市民感情に配慮した挙句の発想がジビエというキーワードの発端であったことはご承知のとおりである。

今どき人間生活において、食品産廃を飼料とするような、養豚的な発想が受け入れられるはずはない。
それがどれだけ合理的で安全だとしてもである。
小生は、ことあるごとに関係飲食店にこのことを訴え続けてきたが、彼らもまた同様なジレンマを抱えていたのである。

単なる不用品・迷惑品の有効利用のために、お金を出すお客があるだろうか。
あったとしても、それはゲテモノ食い、怖いもの見たさに過ぎないのではないか。
ましてや、供されるその料理の値段は決して安くはない!
そんなことなら、正統派の牛肉・豚肉・魚介類…、当たり前のことだ。

この記事には、そういった日本人の心の深淵にも通ずる本質があるように思える。
この皿に盛られた肉料理が、この料理のために選ばれ、尊い命をいただくという、納得と満足と安心…。
それなくしてジビエなどという文化はあり得ない。

ブランド化とは、そういうものであるはずだ。