この蕎麦屋に行かなくなってもうどのくらい経つだろうか?
過去には、総合点で一番に据えた店である。
一番の理由はいろいろあるが、絶対に譲れないものは当然ながら「蕎麦の味」だ。
切り揃えられた麺の太さ(細さ)と角の立ち具合、色合い、盛り方、器…。
それらは既に味としての舌の味覚を誘って、まず裏切らない。
ずるりとすすり、その期待を確かめる。
麺の腰、歯ざわり、汁との相性、かみ締めることで得られる甘味やえぐ味のハーモニー、
喉越し、鼻に抜ける香り…。
もちろん十分な量と付け合せ。
そういった意味での総合一番の店であった。
あった、という過去形の理由は、麺の味だ。
以前は絶妙な細さに切り揃えられ、十割蕎麦には珍しいくらいに長くその形の保って、ひと噛みすれば強い蕎麦香と甘味が感じられたものだった。
残念ではあるが、今回はそういったものは何もないばかりか、太めに切られた不揃いの麺の、妙なねっとり感だけが歯に残り、ある種の不快感さえ感じてしまった。
穴子の天麩羅もさっくり感がなく、重くくどいもので、麺のそれと相俟って、食べ終わった時には胃にずしりと来る感覚と、その後の胃もたれには閉口した。
それと並行するように、テーブルにずらりと並べられた、当時は見たこともないメニューの数々。
さながらファミレスのそれに通ずるものを感じたが、事実幼児連れの客もあり、大声でわめき散らす子供の声に、大人の時間を味わいたいと訪れた小生の期待は、ズタズタに踏みにじられたのだった。
日曜日のお昼時に行ったにも関わらず、以前のような込みようもなく、さほどの待ち時間もなく席に通されたことの意味が何となくわかる気がした。
しかしこの投稿は、単なるクレームやコケオロシのために書いているのではない。
過去に愛し、幸せな時間を授けてもらった大切な存在の全てに対する感謝とエールの気持ちである。
そして我が身に振り返ったとき、それはそっくりそのまま突き刺さってくる。
もう暫くしたらまた行ってみよう!
その時はきっと、以前のようなあの旨い蕎麦を食わせてもらえることを願いながら。