平成二十八年が明けた。

大晦日から元日にかけていつも思い出すのは、今は亡き両親の会話だ。
年越しの支度に忙しい母親に、「正月といったって、昨日が明日になるだけじゃないか、何もそうアクセクすることもなかろうに」、一杯機嫌で呑気に構える父親に、呆れ返る母の顔が今も浮かぶ。

14516364393001451636446914とはいえ、元日にはやはりそれなりの気持ちが入ろうというものだ。
神棚を拝み、仏壇にお参りをする習慣は、物心ついてからこのかた変わりはしないが、両親を亡くし自らが当主となってからは、心境に大きな変化がある。
まして二百年を優に超える先祖代々の仏壇ともなれば、尚更だ。
実家から移動したときも、専門業者が感嘆の声をあげたシロモノ。
自ずと厳粛な気持ちにさせられる。
祖母が死に、祖父が死に、姉が死に、父が死に、母が死に…、いよいよ自分の番がきた。
この仏壇に向かうと、「今度こそお前だぞ」と、迫ってくるような威圧感があるが、その反面どこか安心できるのはなぜだろう。

1451636429998元日といえば御節!
このところ、羽島市の料亭「音羽」にお世話になっている。
当然これだけで済むはずもなく、他にいろいろと摘んでいれば、息子と三人の我が家の正月には、これでも食べ切るには難しい量だ。

山下の家に外せない正月の食い物!
というか、代々伝わる当主の酒の肴と言った方がいいものがこれだ。
ナマコに数の子そしてクワイ。
1451647568998小生には三種の神器にも値する。
もちろん、御節とは別誂えでなければならない。
言い換えれば、これさえあれば立派な正月気分になれるから不思議だ。
家風というか、その家に伝わる強烈な文化ともいえるだろう。
そういうものが、ある種厄介の種であることは否めないが、同時に幸せなことでもある。
いずれにせよ、一事が万事、そういう家庭に生を受けた者の精神構造とはいかなるものか、さすがに自分でも持て余していまうときがあるが、周りはさぞ翻弄されているに違いない。ならばこの場を借りてお詫び申し上げたい。

一年の計は元旦にあり!
普通ならここで、今年一年の抱負なんてものを披露するところだが、そんなもんはもうやめた。
今年こそは…、今年は必ず…、きっとこんな年に…。
なんと空々しくナンセンスな言葉だろう。
実際、思い通り・願い通りになったためしなど一度もなかった。
なのに性懲りも無く、まるで神頼みのごとく毎年繰り返すことの愚かさに、ようやく気付いた。

よく、思考は具現化するという。
そこで、愚にも付かない絵空事をクドクド書き連ねるおバカが多いが、もうこの歳になるとそんなことをしなくても確固たる信念(凝り固まりともいう)が培われており、
ただ生きているだけで十分なのである。
努力することを誓うことほど疲れることはない。
ただ生き、生ずるすべての出来事を楽しむ!
そこに何かあるとすれば、創意工夫とでもいうものか。
しかしそれさえも楽しむことに他ならない。

どうだ!
恐れ入っただろう。

…それにしても、
人生を楽しむ!?
嗚呼、なんと難しい生き方なことか。
またしても、絵空事を言ってしまった。 

一年の計は元旦にあり!!!